OBの声

名前 小泉 裕一(2期生)
高校 狭山清陵高校
大学 日本福祉大学
仕事 青年海外協力隊(理学療法士)

私は武蔵狭山ボーイズを卒団後、狭山清陵高校に進学し主将を務めさせて頂きました。
私の高校時代の最高成績は秋の県大会のベスト8。まさか、私がここまで成長するとは誰も思っていなかったと思います。それ位、お世辞にも上手なプレイヤーではありませんでした。当時は人数が少なく、同期8人、下級生3人というぎりぎりのチーム状況でしたので、何とか試合にも出させてもらえていました。何故ケガが多く、練習も十分にできない時期もあり、武蔵時代は歯がゆい思いをしました。今思えば、人生で初めての挫折を味わった時期だったと思います。そのような経験もあり、高校卒業後は理学療法士という資格をとることにしました。そして昨年までは、海外の恵まれない方達の支援をしたいという気持ちで、モンゴルという異国の地で理学療法士として活動を続けてきました。武蔵狭山という恵まれた環境で野球をできるということは、特別な事であり、また、とても幸せな事です。過去に感謝し未来へ還元。そんな想いで今を歩んでいます。





名前 長谷川貴将(2期生)
高校 専修大学北上高校
大学 東京経済大学
仕事 埼玉県警察

私は小学生の時に坂戸市にある坂戸スターズに所属していました。中学生になるにあたり、中学校の部活では物足りないと思い坂戸スターズの先輩が所属する日高シニアに入ることに決めました。私が入った頃の日高シニアは日米大会3連覇などの成績を残しており、指導者も実績のある若い指導者がいて、レベルの高い環境で野球を学べていました。
その後、武蔵狭山ボーイズが発足し、武蔵狭山ボーイズに参加しました。発足当初は1年生が11名、2年生が8名という小人数で、設備もなく父母の方がネット張やフェンス作りなど、一からグランドを作ってくれました。平日練習や薄暮時間帯の練習は照明等もなく、車のライトを照らしながらティーバティングやノックをやっており、環境についてはとても良い環境とは言えませんでしたが、その中で出来る最良の練習方法や野球に関する知識などをこと細かく指導してもらい、その後の私の野球人生に生かすことが出来ました。
その時に私が学んだことが、野球は場所がなくても人が少なくても、その環境下で出来ることをやっていれば成長するということでした。人が少なかったことで個別の指導を手厚くしていただけたし、チームとしてのまとまりも強固のものになりました。
そして、武蔵狭山ボーイズに所属している間に野球を通じて上下関係を学び、1期生とは親しくさせてもらいながら、多くのことを学ぶことができました。
大野監督をはじめ、コーチや先輩の指導のおかげで、2期生と3期生では初の全国大会に出場でき、中学校生活の一番の思い出になりました。
3年間皆と意見を出し合って試行錯誤しながら野球を学べたことは、私にとって最高の時間であり、その後の高校野球や大学野球でも武蔵狭山ボーイズで学んだことは大いに役立ちましたし、出会った仲間は今でも付き合いのある方達なので、武蔵狭山ボーイズで野球をやれたことは今でも本当に貴重な思い出です。






氏名 尾崎 晋太郎(1期生)
高校 埼玉県私立聖望学園高等学校
大学 中央大学
職業 社会福祉施設 事務員

 武蔵狭山ボーイズ(以下、武蔵狭山)で過ごした日々は、私にとって一言で言うと財産です。私は武蔵狭山を卒団後、高校では夏の甲子園に出場しベスト8、国体出場、大学でも野球を続け、現在プロ野球で活躍している選手と一緒にプレーをさせていただくなど充実した野球生活を送らせていただきました。これも全ては武蔵狭山で様々なことを経験し、大野監督をはじめ、良い指導者の方々と出会っていなければ果たせなかったことです。
 私にとって当時、何よりも大きかったことは大野監督はもちろんですが、他にいた3名の名門校出身の若いコーチの存在でした。指導をお手本を見せながら一緒にやっていただけたことで非常にわかりやすかったことに加え、高校野球の強豪校のレベルを近くで感じられたことです。また、チーム発足当初はグラウンドのネットもフェンスもベースも野球道具も無くなり、全くのゼロからのスタートでした。ですが物がない中で無いなりに色々工夫をして練習を重ね、父兄の車のライトを点灯させて練習をしたり、ユニフォームが大会に間に合わず練習着で大会に出場したりと今となってはとても良い思い出です。
 現在、私たち同期生は未だに年に数度の親交があり、中学1年生から数えるともう15年以上の付き合いになります。やはり、同じことをともに頑張った仲間は特別なのかもしれません。たくさんの方々に支えられ、良い仲間と出会えた武蔵狭山での思い出は私の財産です。

























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